2016年2月29日月曜日

リウマチに学ぶ

奥さんがリウマチでした。

でした、と書いたのはまだ痛みなどあるものの、
二人共”これは治ったのではないか”という感覚があるということ、
そして奥さんが自分のストレスの原因を認めた感じがあるからです。


腰痛、肩こり、ぎっくり腰、坐骨神経痛、手腕のしびれなど、
最近では痛みの原因がストレス(怒りや不安など)と
関連があるという説が出てきています。

整体という仕事をしていてよかったのは
こういった説を僕が知っていたということです。

でも、知ってたぐらいなもので、リウマチに対して
施術で自分ができたことはほんの少しだけだった氣もします。

夜に奥さんが痛みで寝られず救急車を呼ぼうかというときに
レイキで痛みを和らげられたことがあるぐらいでしょうか。


奥さんがリウマチと診断されたのが三年前。
それから二人であれこれやりました。
住む場所を変え、できることをして、
でも薬は飲まず向き合ってきました。


奥さんが自分の内面と向き合い続けた結果、
”(本当は苦手なのに)女性だから料理をしなければいけない”
という思い込みがあって、
それがストレスになっていたと氣づいたのでした。

「無意識のうちに女性としての役割に捕らわれてた」
「痛みがあるからやれないんじゃなくて、(自分が)苦手だからやりたくなかったんやわ」

そんなことを話をしていたら
氣づいたら急に関節が柔らかくなってきました。

びっくりして、ちょっと泣きました。僕だけ(笑)
よかったーって二人でなりました。


一応言っておきますが、別に下手だとか言うわけではないんですよ。
ちゃんと美味しいものを作ってくれていたし。

けど、他人の評価とは関係のない自分の中のものなんですよね。


からだのことについてこのブログでずっと書いていますが、
こんなこともあるんです。


リウマチに限らず痛みの症状が続くようなことが
これから周りの方に起こることがあるかもしれません。

そのときに、もしかしたら何かストレスになっているのではないかと
その選択肢がひとつ広がるように、この投稿をします。


奥さんはまだ痛みがあるのはあります。
無理をしたり寒いときなどは痛みが出たり
動かしにくかったりするかもしれませんが、
リウマチだから治らないとか、症状が進んでいくということには
ならないのではないかと思います。

どこを”治った”とするのか、ということでもあると思います。


もちろん、今回のことが全てではないと思います。
ストレスとは関係なかったよ、ということもあるのかもしれません。

けど、ひとつの例として知っていただければと思います。


結局、自分の身体を治すことに最終的に責任を持つのは
自分自身でしかないのだと、今回あらためて思いました。


そして、自分を深く見つめて自分を開放していくこと。
人生ってそういうことだ…と言うフツーの言葉は言いたくないけど、
そういうことなのかなぁと思いました。


ただ、ぶっちゃけて言うと今の状態がいいなら、それでもいいと思います。
自分と向き合うってたいへんです。
変わることはつらいし、しんどい作業です。

うちはたまたま僕が料理をするのが好きだったけど、
家族の問題にもなるのかもしれない。

そこは、自分次第です。
でも、本当は向き合いたいのではないかと思います。

自分を感じる機会にもなればと思います。


長い長い投稿になりました。
もし、この投稿が誰かに届くならとても嬉しいです。

参考になったり良かったと思っていただけたら、
投稿の下にSNSのボタンがありますので、
多くの方にシェアしていただければ幸いです。


より多くの方が身体のことから解放され、
より良い自分自身の人生を生きられますように。


前田晋吾

2016年2月23日火曜日

こころとからだは別のもの

東洋医学では心身一如と言うことで、
こころとからだを一体のものと考えています。

もちろん僕もそう言ってきましたし、
こころの状態がからだに出るし、
からだを変えることでこころの状態を戻す
ということができると考えています。

そういう部分は当然心身一如でいいと思います。


ただ、ですね、そうは言うものの、
からだは自分のために必死に無意識でも働いてくれていると思うと、
ただただ一緒と考えていいものかとも思います。


僕は胃腸が弱いのですが、
似たような方に見つけていただけるのか、
来られる方も胃腸が...という方が多いです。

僕は元々お腹が弱いのによく食べ過ぎてしまうことがありますが、
そういう時に感謝を伝えます。お腹に。
お腹に手を当てて、いつもありがとう、と。


そうすると、うまく言えませんが、何か変わるような氣がします。
お腹が動いてくれるのか、意識が変わって
次の食べる機会に食べ方が変わるのか。

食べ過ぎなかったり、ゆっくり食べたり、
脂っこいものはやめておこうか、とか何か変わる氣がします。


そして自分という一番身近な「人」に感謝ができることで
次に身近な家族、親せき、友人、もちろんその他の人へと
感謝の輪のようなものが広がっていく、そんな氣がしています。

2016年2月22日月曜日

わかる

昨日、人のからだについて(人そのものでもいいのですが)、
あらためてわかったことがあります。

ことばにして書くとわかりにくいかもしれませんが、



からだのことを

わかろう、わかろうとすると、どんどんわからなくなり、

よくわからないなぁ、とおもうと、それがいちばんわかっている

ということです。



突き詰めていった先に、わからなかったが来ると
とてもしんどいと思います。

そこをもっと救えるようになりたいなと思っています。

2016年2月19日金曜日

続お金について

施術をしていたから、お金の流れが今のままでは止まってしまうのが
明らかだったから、前回の「お金について」と言う記事を書いた。


けどよくよく考えると、元々どうも自分でお金を作り出すとか、
増やすということが苦手なように思う。

まぁ多くの人がそう思っているかもしれないけど。

そこに施術をしはじめたものだから、完全に行き詰まったという感じ。


じゃあ施術の料金を上げればいいかと言うと、
今以上に上げてしまうと、届けたい人にも届かなると思うし、
当たり前すぎるけど手を抜いて何回も来てもらう、なんてできない。

だから余計に、できる人が出来ることをやればいいと思ったし、
そのことがお互いを認めることになると思う。


お金があるのに不幸せな人の話が本当か嘘かあるようだけど
そういうことがなくなるんじゃないかと思う。

みんな自分自身の深いところにつながることで
「僕はお金を稼ぐのが得意だから、お金を稼ぐ」、
「僕はお金を稼ぐのは苦手だけど、手当てはできる」、
ということができるようになると、
本当にお金が循環していく社会になるように思う。


あなたは、あなた自身ができることをすればいい、と
みんながそう言える氣がする。


その人自身が本当に何をするべきかをわかっていったら、
お互いに支え合える。 だから、みんなが必要で、
みんなが本当にやりたいことは無駄じゃないし、間違っていない。

それが一億総活躍ってことじゃないの?違うの?


不安にならずに、みんな生きていて欲しいなぁと思う。

あなたがいないと、僕は生きていけない。
あなたがいるだけで、僕は嬉しい。

2016年2月18日木曜日

お金について

お金だけは、なぜか特別なんだよね。


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例えば、農家の人が野菜が余ったからと言って持ってきてくれる。
ありがとうと言って、野菜をもらう。
隣のおばあちゃんが一人暮らしだから、
もらった野菜を料理して持って行ってあげる。

すごくいい循環だと思う。

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施術をすることで、ざっくり言うと下のような変化を
僕の方では期待して施術をしている。

施術をする→何らかの癒し・変化がある→
日常が過ごしやすくなる→施術を受けなくてもよくなる

もちろん、受ける人によって期待するものは違うと思う。


施術をする人として、一つの目指すところに
「僕のところに来なくなっても大丈夫になるといいな」と言うことが大きい。

この考えを持っている限り、
施術をして目指すところに行くほど収入が少なくなって自分が苦しむ、
と言う状態があらわれる。
嬉しい状況なのに、苦しい。困る。

なんだ、これは。


そこで、お金に対する見方が変わった。

お金も野菜と同じように、余分に持っている人が分けてくれると言ったら
ありがたくいただけるようにしよう。


そうしたら、料理を作っておばあちゃんに持っていく代わりに
僕は施術ができる。施術をし続けられる。

あなたからいただいたお金があるから、
他の人に施術を続けられます、そう言える。


もう収入に関しての考えが行き詰まっていたので
お金のことを考えなくてよくなると本当に楽だ。

これからもよい施術を続けていきたい、それだけです。

2016年2月15日月曜日

施術の感想4

施術を受けていただいてのご感想をいただきました。

ありがとうございます!

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どうして「めぐり」なんですか? という質問を、

はじめて施術を受ける前に聞いた記憶があります。


私は、ストレスからくる胃弱、肩から上の張り、PMSなどに悩んで相談をしました。

施術は力強く押される感じではなく、「touch」に近い感覚です。

施術が始まって数分すると、ふっと身体の緊張感が抜けて、

すっと呼吸が深まる「境目」がやってきます。


その境目を過ぎると身体がじんわり温かくなり、

考え事で疲れていた脳もゆるゆるとリラックスしはじめて、

「あ、”めぐってる”」と感じます。 

言葉で表すと、流れが滞っていた川の泥がすっと流れ出て、

さらさらと春の温かい小川が流れだすような感覚です。

施術後は温泉に浸かった後のような、

じんわり気持ちのいい感覚でその日の残りを過ごせます。 


何度か施術していただいき、ある日ふと、

以前の滞った状態から「(めぐりさんの言葉を借りると)抜けた」

ところに自分がいることに気が付きました。 

身体への施術と同じくらい、「抜ける」重要なきっかけがありました。 

施術後のめぐりさんとの会話の中で、

身体に対する意識の持ち方をすっかり変えるキーワードに気が付いたことです。 


そして今はもう、通っていません。 

けれど、もしまたつらい時があったらいつでも訪ねてもいい、

それくらい気楽に長くお付き合いできそうです。

(30代・女性)

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2016年2月2日火曜日

とりあえずのところとして:ことばは常におもいに足りない

結局、「治す」というのも「メンテナンスする」のも言わないとなると
何をするのかわからない。

「○○をします」と言っちゃっていいかどうか、
イマイチしっくりこない。


けど、今まで施術した中で、
またいつも思っていることとして
下のようなことは思ったりできていたりしていると思うので
言葉にまとめて、一応の自分の紹介文をつくりました。


わかりにくいけど、何かピンと来た方がもしおられたら、
また誰かに紹介したくなったら、ぜひともお知らせください。


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来てくれる人がからだのことにとらわれず、

本当に自分のやりたいことに向かっていけるように。

今止まっている人は動き出せるように。

動けている人は動きを止めないように。

またよりよく動けるように。


その手助けの一つとなり得ればと考えています。


少しわかりにくくなってしまいますが、

こんなことに効果がありますとか、

メンテナンスしますとか、

そう言った「こちらからの言葉」では、

その言葉の中でしかご本人が変わらないと思います。


でも、本当はもっといろいろ感じられるし、

自由に「めぐり」という僕を使ってもらえるのではないかと思います。


「自分自身の身体からの声」を受け止める時間になればうれしいです。

その人なりの人生に寄り添っていければと思います。

○○する人になりたくない:ことばは常におもいに足りない

治したいような治したくないようなと言うことは置いておいて、
「治す」と言うことを自分で言えないので、
アピールする点として「メンテナンス」と言うものがある。

最初からあまり「治そう!」と言う氣が少ないというのは前回書いた。


そして、これはとても個人的なことだけど、「メンテナンスをします」という、
僕が「メンテナンスをする立場」になることにもあまり興味がない。
笑ってしまうようなことだけど。


僕はからだのメンテナンスは自分でしている。
特にこの仕事をするようになって、本当にいろいろ調べたり本を読んだりした。


だから、「からだのことって、少しだけ自分に興味を向けたら
今それほど悪くなければ自分で何とかなると思いますよ」と思ってしまっている。

これを書いている2016年2月2日現在で35才だからかもしれない。


結局は自分の弱いところ、からだの特徴やくせを知って、
食事に氣をつけて、運動とかしてより長く健康でいるしかない。




書いていて氣づいたけど、
だから、自分で「メンテナンスをする人です」と宣言したくない。

でもご本人が自分のメンテナンスとして僕の施術を選んでくれるのは
とてもとても嬉しい。


今も毎月施術を楽しみにして来てくれて、
施術の後はとても軽やかになって帰っていく方がいるけど、
その姿を見られると本当にやっていてよかったと思う。


あなたの身体が、自分の一番いい状態に合わせてくれるんだと思う。
僕は少し手を貸しているだけ。
あなた自身があなたの身体の一番の理解者であると思う。

こっちからこんなことをやってますと言うとそれがやりにくくなるんだと思う。

治すということ:ことばは常におもいに足りない

「治す」とか「メンテナンスする」とか、
いろいろとからだのことをするときの言葉がある。

僕は「治す」ということは立場上できない。
「治りますよ」とは言えない。


だいたい、「治す」ことってとても微妙なことだとおもう。

最近では腰などのからだの痛みが過去の感情から来ているという見方もある。
ならば、例えば腰の痛みをその時に「治せた」とおもっても、
感情の方をどうにかしないと身体の別の箇所に痛みが出たり
より激しい痛みになることもあると言う。

その場合、「治った」ってどこまでだ、という話だ。


また薬で痛みをやわらげたり、消したりして「治った」と言う場合もある。
よく「ごまかしているだけだろう」と言われる状態。
これはこれで「治った」とする人と「治っていない」と言う人がいると思う。


結局はその人自身が症状に対して責任をとるしかない。
ちょっと痛いところはあるけどへっちゃらなんだよと言う人もいるし、
この痛みは耐えられないから絶対になくなってもらわないと困ると思う人もいる。


僕は結局、薬であっても何であっても
「その人が痛みを忘れて自分のやりたいことができるのであれば
それは選択肢としてアリ」だとおもっている。

その人の人生だし、その人が選択の責任をとるしかない。
悔いだけ残せないようにするしかない。


僕は治りますとは言えない。
治ることを期待して依存されることはやはり違うと思う。
また、「治せる」ということが本人の治癒力を削ぐのではないかと言うことも思う。

だから「よし、治そう!」みたいな氣が少ないとも思う。
そういうインフォメーションをするのは違うかなぁと。


でもやっぱり治したいと思うし、頼られたいとも思う。
治したいと思わないと向上していかないしね。

その辺りなんだよね。難しいのがね。

収入について:ことばは常におもいに足りない

例えば、「世界が100人の村」だったら。50人でもいい。


その中に「からだのことをする人」、例えば「医者」とか「鍼灸師」とか
「整体師」などが2人ぐらいいたとして。

一時期からだの調子の悪い人が何人かいたけど、
現在は村のみんなが元気でそれなりに体調の管理ができていたら
その「からだのことをする人」はどうやって食べていくんだろうか。

その状態は「からだのことをする人」はとても誇るべきことだし、
本当に喜ぶべきことだとおもう。


ただ今のような資本主義、貨幣経済の中にあって
「からだのことをする」ことだけで収入を得ている場合、
その「からだのことをする人」は
本当に相手の望む状態にしてあげようと思えるのだろうか。


いや、思うとおもうよ。僕もおもってやっています。
「何とか今より少しでも良い状態になってほしい」
「悪くならなくなってほしい」


ただ、収入や生活を誰かのからだの状態に頼りすぎる、
そのことだけはしたくないと思う。

日本だけでも1億数千人いるんだから考えなくてもいいよ、
という話では決してない。


それは「治す」とか「癒す」とか「メンテナンスする」とか
すべてに言えることだと思う。

さらにつっこむと「健康」ってなんだ、とか
「からだが良い状態」「悪い状態」ってなんだにつながる。

2016年2月1日月曜日

ことばは常におもいに足りない

「ことば」は常に「おもい」に足りない。

いろいろなところで、場面で、よく感じてきたこの考えが、
今の「からだのこと」をしているとより感じられる。


自分がやりたいことと、やりたくないこと、
自分がなりたいものと、なりたくないもの。

相反するものが常に同居する現状。


自分でやりはじめて、いろいろ考えて、
仕方なく今の形でいるけれど、
本当のところは隠れている。嘘はついていないけれど。



自分の中にある考えを少しずつでも出していくことで、
自分自身につながる氣がする。


何を考えたっていいじゃない。
そんなところに行ければいいな。