2016年2月2日火曜日

治すということ:ことばは常におもいに足りない

「治す」とか「メンテナンスする」とか、
いろいろとからだのことをするときの言葉がある。

僕は「治す」ということは立場上できない。
「治りますよ」とは言えない。


だいたい、「治す」ことってとても微妙なことだとおもう。

最近では腰などのからだの痛みが過去の感情から来ているという見方もある。
ならば、例えば腰の痛みをその時に「治せた」とおもっても、
感情の方をどうにかしないと身体の別の箇所に痛みが出たり
より激しい痛みになることもあると言う。

その場合、「治った」ってどこまでだ、という話だ。


また薬で痛みをやわらげたり、消したりして「治った」と言う場合もある。
よく「ごまかしているだけだろう」と言われる状態。
これはこれで「治った」とする人と「治っていない」と言う人がいると思う。


結局はその人自身が症状に対して責任をとるしかない。
ちょっと痛いところはあるけどへっちゃらなんだよと言う人もいるし、
この痛みは耐えられないから絶対になくなってもらわないと困ると思う人もいる。


僕は結局、薬であっても何であっても
「その人が痛みを忘れて自分のやりたいことができるのであれば
それは選択肢としてアリ」だとおもっている。

その人の人生だし、その人が選択の責任をとるしかない。
悔いだけ残せないようにするしかない。


僕は治りますとは言えない。
治ることを期待して依存されることはやはり違うと思う。
また、「治せる」ということが本人の治癒力を削ぐのではないかと言うことも思う。

だから「よし、治そう!」みたいな氣が少ないとも思う。
そういうインフォメーションをするのは違うかなぁと。


でもやっぱり治したいと思うし、頼られたいとも思う。
治したいと思わないと向上していかないしね。

その辺りなんだよね。難しいのがね。

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